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「風霊の祭り」2

 景色が変わり。シェーヌは、青い空のただなかに、一人でいることに気づく。父の姿がどこにも見えない。上下左右を見回すが、風霊(ウィデク)の姿は一つもない。
 以前もこんなことがあって、「遠翔(テレフ)のときには、大人しくしていろ」と言われたのに、またやってしまった、祭という語のもつ賑やかな予感に浮かれたのだ。親の精霊(ア=セク)が子供をつれて遠翔(テレフ)するとき、普通、子供は迷子になんぞならないという。親はなかば無意識に子供の力を縛るからだ。それがどうしてシェーヌに限ってしばしば親にはぐれるかというと、親の力が弱くて、子の力が強く、おまけに制御が足りないからだ。
「また、叱られる……」
 それも悲しいのだけれど。父の、自分の弱さが侘しいような、シェーヌの強さに戸惑ったような表情を、見なければならないのが、一等辛い。父は一度も言葉にはしないものの、母が父の元を去ったのも、シェーヌに振り回されて悩む彼女を慰める男に恋したせいだと、シェーヌはすでに悟っていた。風霊(ウィデク)の子は、風さえあれば勝手に育つ。だから、子育ては、それほど重い義務とはされない。子より恋を選んだ母を咎める者はいないが、だからといって父が淋しくないわけではない。
「父上にも、はやく素敵な恋人ができますように」
 そのためには、自分が邪魔だということを、シェーヌは内心理解していた。少しでも早く大人になりたくて、背伸びするように少女の姿をとってはみても。「力を抑える力」はいっこうに姿形に追いつく成長はしてくれない。
 見下ろす下界は奇妙に平らで、なにやら蠢いて見えた。シェーヌは、霊力を暴走させた直後なのでさすがに慎重に、そっと体を丸めて、高度を下げた。下界が十分見えるところまで降りて、すいと両手を広げ、高度を保つ。目をこらせば、眼下はすべて水だった。それが、四方全部、視界が果てる先まで続いている。じゃばじゃばと音をたて、不思議な匂いがする。風は、湿って重い。
 海を見るのは、初めてだった。海という語は知っていたが、目の前の水の連なりとは結びつかず。潮騒という語は、知らなかった。見慣れぬ光景に囲まれ、心細さにシェーヌの頬を涙がこぼれ落ちる。父親の元に帰りたくても、遠翔(テレフ)が時々できるのはあくまでも霊力(フィグ)の暴走で、望んだときに望んだ場所へ飛べるわけではなかった。父の居所も、どれだけ離れているのかも、よくわからない。
 シェーヌは、えくっえくっとしゃくりあげて泣いた。
「シェーヌ、か?」
 突然声がしてシェーヌはびくりと顔を上げた。
 さっきまで確かに一人だったのに。目の前に風霊(ウィデク)の男がいる。儀式の衣をつけ、夏の陽光の下、橙金の髪をなびかせている。威厳はあるのだが、怖いとは思わない。怖いと思う余裕がないほど、きれいだと、シェーヌは思った。
「センティスの娘か」
 問いを繰り返されて、見とれていたシェーヌが、あわてて頷こうとしたとき。風霊(ウィデク)がついと近づいて、肩を抱き寄せられた。父さえめったに触れない体に、躊躇いもなく触れられて、シェーヌは身を硬くする。けれど、幼い頃に父に抱き寄せられた記憶が、頼りない柳の枝にもたれたようだったとすれば、この男は樫の幹だった。霊力(フィグ)の強さが硬い殻をなし、シェーヌの霊力(フィグ)が多少暴走したところで、心を盗み見ることなど出来ないだろう。それが直感的に判った。
 次の瞬間。ざん、という音とともに、下界の水が巨大な飛沫を上げた。飛んでくる水の弾丸を、しなやかな空気の皮膜が防ぐ。風霊(ウィデク)の男が結界を張ったのだ。
 白い飛沫の束ねの内から、大木ほども太さのある長竜が、空へぐんと跳ね上がった。青い空と白い雲の描く(まだら)模様を背景に、銀の鱗が(きらめ)く。鋭い長角が、空を裂くようだ。全身に纏いつく水滴が霧のように散って、小さな虹の花が咲いた。
「私に、所用か」
 風霊(ウィデク)の男が、霊力(フィグ)で声を強めた()の術でもって、竜に呼びかける。シェーヌの肩口を支える掌に、お前は案じなくてよい、というように力が篭った。
「過去を忘れはせねど、孫子(まごこ)に恨み報ずるほど愚かでもなし」
 語、というより、意。想いの塊のようなものが、シェーヌを打った。風霊(ウィデク)の男も解したのだ、シェーヌの肩にある手がわずかに強張る。
 二人のはるか上まで跳ねあがった長竜は、天空に腹を向けて方向を変え、今度は頭を下に落ちてくる。その頭部が二人の結界のすぐ横を過ぎるとき、薄青の宝玉のような瞳が、シェーヌを見つめた。
 再び、音と飛沫を上げて、竜の姿が水中へ落ちる。ばらばらと跳ねる水滴は結界に消え、風霊(ウィデク)の男がほうと息を吐いた。
「去った、ようだ」
 来ることが一瞬前に解って、結界に入れてくれたのと同じく。去ったこともわかるのだろう。シェーヌは霊力(フィグ)を海中に向けようとしてみたが、うまくはいかなくて、すぐに諦めた。
「あれは?」
 シェーヌは風霊(ウィデク)に尋ねながら。あれ、と呼んではいけないような気がした。だが、彼、と呼ぶのも違和感があった。
「海竜だ。減り果てた水霊(オセアク)の末裔とも、不死変異の竜とも言うが。生粋の竜ではあるまい。竜は、話せない」
「名前は?」
「知らぬ。あるかどうかも、知らぬ。もう、数百年だか千年だか、海竜はあれ一体しかいない。海竜と言えば、あれのことだ」
「恨み、って言ってた……」
「昔、海竜は風霊(ウィデク)の娘と愛を交わして、女の子を設けた。子供を六百年前の近接(タゲント)の巫女にと請われて、母親は我が子を守るために付き添い、近接(タゲント)の戦で妖魔(ヴァン)に斬られた。妖魔(ヴァン)が海に近づかないのは、海竜を恐れるからだ、とも言う」
 昔、悲しいことがあったんだ、と、シェーヌは思う。陽光にきらきらと輝いていた、銀色の竜。力に溢れているのに、大切な者を亡くしてしまって。たった、一人なのだ。
「きれい、だった」
 風霊(ウィデク)の頬を、笑いの気配がかすめた。
「恐ろしくは、なかったのか? ……今日のことは、他の精霊(ア=セク)には言うな。海竜は滅んだと信じる者も多い。好奇心で海に近づいて、いらだたせでもすると、今回ほど穏やかには終わらぬかも知れぬ」
 風霊(ウィデク)の目が少し険しくなる。
「父上にも、言ってはだめ?」
「センティスか……、センティスには言ってもよいが、私が他言無用と言っていたことも伝えてくれ」
「うん」
 シェーヌは、こくりと頷く。
 遠翔(テレフ)の力強い霊力(フィグ)が、シェーヌを押し包んだ。
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